一昨年3月、畑も街も総なめにする津波の波頭を映すテレビを見て、何か絞めつけられるような、おぞましい生理的反応を覚えました。これは確か前にもあった。そう、それは67年前、雨のように降りかかる焼夷弾の下でもがく自分でありました。これは破壊、それに尽きます。そして最近テレビで見た一挙に広がる反日デモの荒れようにも既視感がありました。思い出したのは、終戦末期に印刷された日本音響学会誌の裏表紙にあった「電話も兵器」というある通信機会社の広告でした。確かに電話は兵器になりうるようです。ハッカーによる報復的攻撃の新聞記事も読みました。ハッカーはホワイトノイズ的かと思っていたのですが、これでは有色です。以上の事実は何れも既視的なもので、IT技術が招来した新しい社会にはまだ本当に新しいものは無いのかなという気がします。
昔から破壊と無秩序の後には無政府主義が現れるようです。この言葉には“主義”が付いているから哲学があるのでしょう。ここからは新しい芽が吹き出します。コンピュータネットワークによるサイバー化は多くの秩序を破壊しましたが、私は、ビッグデータのダイナミズムから、なにかグローバルな、安定してコモンな、市民層とでも呼ばれうる分厚な社会層が現れないかと期待しているのですが、私の存命中は無理かもしれません。
というような社会情勢なのですが、あるいはそれだからこそ、情報科学技術の基礎研究について、その必然性と重要性に疑いを差し挟む者はいないでしょう。情報は既にそこにあるものとして存在するのではなく、活き活きとして生まれて巳まないものであり、その現出の契機に寄与するのが情報技術であると考えます。情報はことがらをつなぎます。これは生命が作るつながりと全く等価なものです。それゆえ生命の研究が続く限り、情報の研究も、同じ意義のもとで続くでしょう。